日本人が大事にしてきた教えのお話。

 

 

 

 

神宮で参拝をさせてもらったときに、

 

 

 

 

神主さんがこんな話をしてくれました。

 

 

 

 

「日本人が大事にしてきた叡智である『神道』には、

 

 

 

 

あるものがないんです。

 

 

 

 

他の宗教だったら考えられない、

 

 

 

 

決定的なものがない。

 

 

 

 

なんだと思いますか?」

 

 

 

 

なんだと思いますか?

 

 

 

 

「教えがない」んだそうです。

 

 

 

 

教えがない宗教なんて、他に考えられます?

 

 

 

 

でも教えがないから相手を裁かないし、

 

 

 

 

ケンカせずに相手に合わすことができるんです。

 

 

 

 

教えがないということは教えを守らなかったときに

 

 

 

 

落ちる地獄もないということ。

 

 

 

 

地獄がないから誰かに救ってもらうべく救世主も必要ないのです。

 

 

 

 

日本人は救世主を待たなくても

 

 

 

 

ひとりひとりが内なる叡智とつながっていけると考えていたのです。

 

 

 

 

教えはない。救世主もいない。

 

 

 

 

そんなの宗教じゃない(笑)。

 

 

 

 

そう、宗教じゃないんです。

 

 

 

 

「神道」は宗教ではなく日本人の「生活」だったんです。

 

 

 

 

「では、教えがないかわりに、何があったと思いますか?」

 

 

 

 

神主さんの話にはまだ続きがありました。

 

 

 

 

「美しいか、美しくないかで判断する感性があったんです」

 

 

 

 

これが答えでした。

 

 

 

 

「その行為は美しいのか?」

 

 

 

 

これが日本人の生活(神道)の本質だったわけです。

 

 

 

 

また薩摩(現在の鹿児島県)に伝わる

 

 

 

 

「薩摩の教え 男の順序」というものがあります。

 

 

 

 

1、何かに挑戦し、成功した者

 

 

 

 

2、何かに挑戦し、失敗した者

 

 

 

 

3、自ら挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした者

 

 

 

 

4、何もしなかった者

 

 

 

 

 

5、何もせず批判だけしている者

 

 

 

 

これは、美しさの順序といっても良いでしょう。

 

 

 

 

正しいか間違っているかで判断しようとすると、

 

 

 

 

「自分は正しい、相手は間違っている」と

 

 

 

 

お互いが思っているわけですからケンカになります。

 

 

 

 

美しいか、美しくないかを基準にしたら、

 

 

 

 

そもそも言い合うことさえも粋じゃない気がします。

 

 

 

 

生き様の美しさを魅せ合うようになったらいいですね

 

 

 

 

※魂が震える話より。

 

 

 

 

私も、私の心の中にある醜さを、

 

 

 

 

私の中にあるもう一つの「美しさ」で変えていこうと思う。